昭和47年12月21日 朝の御理解



 御神訓一、縁談に相性を見合すより信の心を見合わせよ。

 相性を改め、見合す。信の心を見合わせよ。これは、縁談にこういうような、あー一つの話があってるが、相性はどうでございましょうかと、いうようなお伺いをなさる方があります。相性というのは、例えば、あー、水の性の人と火の性の人があるといたしましょうか。火が下から上へ燃え上がっていく、それを上から水が落ちてくると。消してしまうことになりますね。だからこういうのは、いうなら相性が合わない。主人がいかに、いかに働いても、いかに一生懸命お金を設けてきても、家内がぱっぱと使ってしまう。いわゆる消えてしまわけです、ね、教祖様はその、火の性がよいの、水の性が悪いのというのではなかろうと思うですね。ここの、信の心を見合わせよとおっしゃる、その信という字を信心の信という字を当ててあります、ね。
 
 そこでです、例えばなら火の性の人が、水の性の人が、例えばあるとしてです、ね、私はここではその、何ていうたらいいんでしょうか、あの、易学とか、そういうようなあの難しいことからいうのなら、これはもう全然迷信だと思いますよ。けれどもやっぱりそんな人がありましょうが、陰気な人もありゃ陽気な人もあります。なるほどもう、主人は一生懸命働くばかり。けれども家内はパッパッパッパッすつるというような、はああそこはもう金ばどこにいくら主人がもう、働いたっちゃああれじゃ金は残るまいというなのがありましょうが。ね。だから、ならどちらがどうとは言えんのです。たとえばその、金でも金遣いが例えば荒いというてもです、その金遣いがね、神様の方へ向けられてくると、これは素晴らしいからですよ。どんなに働いても金もうかってもですよ、どがしこおかげ頂いとっても、例えば神様にはほんなちょぼーっとばっかりしかお供えできない人があります。ね。けれどもそうではなくても、大体、その心がいうならば大きいというか、もうそういう人たちが、こと神様へ向けられますとです、もう思い切ったお供えがでけたりするんです。ですからその火の性、水の性という、例えば言うてもです、そんなら中にです、お取次という信心という一つの釜があり、するならどういうことになるでしょう。水の性のものがその釜の中に水を入れる。下から火がどんどん燃えて、あがってくる。もうこれは、水ならお湯になるでしょう。米ならご飯になるでしょう。ね、そこにです、いやあ、あっちの夫婦はとてもあげなこっちゃもう家はもてまいと思いよったけれど、信心されるごとなったら、かえって素晴らしいままになるというようなおかげを受けるわけです。ね、ですからね、あの、信の心を見合わせよと。

 私は今日ここを頂いて、えーどのような御理解を頂くかは、わか、実は検討がつかないのですけれども、まあ今申しましたようなことを聞いて頂いたんですよね。なら確かに水の性と火の性の人はあわんだろうと思う。ね、どんなに、いわゆる、火の性の人が燃え上がってもです、それを水の性の者がチューンと消してしまう。ね、これではな、まあ私がいう相性ですね、それではもてまい。けれどもそれがこと、一つ、信の心、いわゆる信心の心を持って、それがなされる時に、それが水の性でなからなければ、火の性でなからなければとてもおかけが受けられないほどしのおかげが受けられる。信心という、そこに器、釜なら釜、鍋なら鍋がある。それに水の性の人が水を入れる。火の性の人は下から燃え上がる。お湯になり、それがままになる。ね。だから問題は、信の心ということになる。

 私は今日は頂いたことがね、『人のために泣き、人のために喜べる』ということを頂きました。私は信心をさせて頂いて、だんだん自分の心がです、ね、まあなんと申しますかね、んーその石井清さんの言葉じゃないですけれども、いわゆるあいうえおですよね。あは愛情、いは意地。うはな、んでしたかね。んーはい、え、疑い。ね、えはえこひいき、おは思いあがり。そういうようなものを、具足しておる。ね、そういうものを備えておるのが人間だと。と分からせて頂いたらです、どんなに意地悪いことをされても、ね、どんなに偏愛の愛情を、偏愛であっても、ね、どんなにいわゆる底意地の悪い人であっても、ね、どんなに疑い深い人がなら私を疑ったといたしましても、この人はえこひいきばっかりするといったような場に当たりましても、なるほど、この人は、人間だから、人間がこれは具足しておるもの、備えておるもの、それが露骨に出てきておるだけのこと、誰しもそれがあるのだ。ならけれども信心とはそういう、人間が備えておる汚い心というような、その神のきかんに叶わぬ心をです、一つ一つ取り除いていくことが、信心だと。わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。だから私は信心させて頂いておるのであるから、ね、そんなことでいちいち腹立てておったり、そんなことで不愉快な思いをしたりするようなことであってはならない、この人は信心のない、また信心の薄いいわば人間が言うておることであるから神様に向かっておる私共としてはそれを何とはなしにです、ね、まあ可愛いものじゃというような見方ができれるおかげ。心では、はあ人間じゃけんそん位、そうであろうとこう思うとです、腹の立つことが腹の立つどころかかわいらしゅうなってくる。

 先日、秋永先生にある方が相談をされた。もうこの頃嫁がぷんぷんぷんぷんしてどんこんできませんち相談を受けた。そしたら秋永先生が、そりぁあんたこえらしかじゃんのち言うたち。ね、そういう見方が実際にできるようになるとですよ。まだ嫁に来てわずかばっかりの間にです、もうぷんぷんぷんぷんして、まるで自分方の家のごと、本当のおっかさんの前のごと、しておるその姿は、かえってこえらしかじゃんのち。ほんにそげんいやあそうですねと言ったという話を聞かせて頂いたんですけれどもね。私はそういうことになっていかなければいけん。いわゆる、信の心というのはそういう心だと思うんです。 ね、だから、ならいかに秋永先生がです、そういういかに神のきかんにかなわん心を取り除こうと日頃精進しておるかということが感じられますよね。そういう風に見えてくるんだもん。
 人のために泣ける。素晴らしいですね。人のために喜んであげれれる。ほんとに幸せになっていきよんなさる、おかげ頂きござる。ほんとに嬉しいことだな、有り難いことだなと喜べれる心。ところが人間の心はそれとは反対に、人が嬉しいことがあったり喜ばしいことがあったりすると、腹んたつ。ね、そういう心がある、だからそういう心を取り除いていこうという。そこに、信の心、ね、信の心というのがある。

 昨夜、えーお初穂の整理を久富さんと、今、椛目の池尻が受け持っております。若先生と3人で、えー経理のことを承っております。今までは、久富さん一人が、お初穂の整理をしておられたけれども、あの妹が経理を受け持つようになって、えーいつもではありませんけれども、あの、お手伝いをさせて頂いておる。そしたら用があって、私と繁雄さん、あの用があってというかご直会の準備ができたから座ってくれと言うてきましたから、なら後は、あのスマ代あんたにお願いしとこと言うて、あの繁雄さんも私も立たせて頂いた。ありゃあもう、昨日はそれこそたくさんなことでございますから、ずいぶん時間をかけてからやって、私共ご直会を頂き終ってから、また私はあの、妹のお初穂整理をしておるところへ参りましたら、もう涙をぼろぼろ流しよりますもん。どうしたつかっていうたらですたい、ほんとにこうしてお初穂整理させて頂きよっとみなさんの思い真心がね、何か手に通うてくると言いました。ね、そしてね、どうしてこの方達がこのようなお初穂ができるじゃろうかと、とてもてとても教会のお金というものは、あだやおろかにゃ、兄さん使われんですねというて泣きました。私はそれを聞いてですね、この人は素晴らしいと思うたです。ね、この方達がです、どうしてこういう、例えば、なら知ってるわけですね、みんなその人たちの生活状態というものを。それが神様へ向けてこれだけのことができる、ということがです、何という素晴らしいことだろうか、とてもとても教会のお金という金は、あだやおろかにどん使われるこっちゃないですね、というて涙を流したのです。
 私は本当にあの、人のことに泣けるというようなことはそういうことだと思うですね。ほんなこっちゃんね、これはもう本当に私が一人で整理させて頂くだから、お初穂は誰でんには整理はさせられん、この人は多かけん、少なかけん、そげなこつどん考えちからどんしよるんじゃなくて、もう一人一人の真心が開けるこの手に通うてくるという感じ。とてもとても、仇やおろかに、お初穂、あ、合楽教会のお金は使われないとこういう。みんなのこれだけの思い、真心が結集されて、ね。お互いが、ね、本当に人のために泣け、人のために喜べれる心をです、ね、私は一つの自分自身の心のバロメーターとも尺度ともさせて頂かなければいけない。人がどんどん繁盛しよる、ね。もう本当に、あのーそんな方たちがあるんですよ。先生方の中にでちゃね、ほらもう、大祭、ここの大祭のお供え見てから、何かぶんもう腹が立つごとある。ね、そういう心がね、ある、お互い心の中に。厳密にいうとある。それを反対にです、素晴らしいな素晴らしいなあというて、喜んであげれれる心の状態が神の機関に叶う心であり、和賀心が神に向かうておる姿なんです。

 ね、三代金光様のお若い時分のお話をなさいました。そのお話を一部ですけれども、ガリ版刷りにして、当時の青年教師の教師会の席上でお話になったことを、ガリ版刷りにして、当時の先生方だけがそれを持っておられる。それを一般に公開されてない。たまたま私はあの福岡におる時分でしたから、福岡の教会にお参りさせて頂いたら、大坪さんちょいとと言うてから、あの吉木先生がおっしゃいますもん。から裏に、先生のお部屋にまいりましたら、こらな、誰にでも見せられんばってんというてから見せてくださったのが、その金光様のご信心、当時のご信心のことが書いてあるんです。とにかく神徳著しいというだけでなくて、ご霊徳がまた著しかったんですね。お若い時は。もうそれはね、もうそれはもうそりゃもうぽくぽくおっしゃりよったそうです。

 ある業者風な人が、その金光様と一つ、まあ神徳くらべ、まあ神徳くらべというよりもまあ、霊徳比べですね。というようなことで、一問一答試みるその、ために来た、ところがあなたが何日前から、あのこちらにおみえられることを神様からお知らせ頂いておりましたちいうて、その何日の日から行こうと思とったってててて。もうそれっきりでもうあの、恐れ入って帰ったというような話が、そのガリ版刷りの中にありました。中に、ね、生霊とか死霊をこう肉眼で拝んでおられたという時代のこと、が書いてありました。ね、お賽銭箱をぐるぐるぐるぐるぐるぐる回っておられる先生がおられますからよくよく見たらどこどこの先生でしたち。こういう先生のところではおかげは頂かれませんとおっしゃっておられます。お供えもののぐるぐるぐるぐる回っておる先生がありますからどこの先生かと思うたら、〇〇先生でした。ね、こういう人のところでは、おかげは頂かれません。ご本部にまいってから、はあとてもあげんお賽銭でんどんどんあがんならよかろう、あげなんお供えを家の教会にも欲しいというような先生の生霊がね、お賽銭箱やらお供えとこばぐるぐる回っとる。そういうような、例えばあの、ことではおかげは受けられませんと。けれどもね、ここへみえると御結界のぐるりをぐるぐるまわられる先生がある。そして金光様のその、お紋付の、ね、羽織やら袴やらに、こう、もうさすらせてくださいと言わんばっかりに、こうさすられる先生がある。誰かと思うたら、どごどごの先生でした。こういう先生のところでは御比礼が輝きますとおっしゃった。もう金光様のご信心を頂きたい、もうお側に寄りたいち。それどころか今度は反対に、ね、ただお賽銭箱のぐるりやら、お供えのぐるりやらども周りよるようなところでは人は助からんとこうおっしゃる。けれどもそんならそうしようというてでけんところに難しさがあるのです。信心は。信の心と、しんの心とこう教えておられるがです、そのまことの心というものがです、私共の心の中に、ね、神のいうならきかんにかなわぬ心、ね、教祖様が言われる、ならあいうえおから、いうところのいろんな汚い、ね、そういう偏愛とか意地とか、ね、思いあがりといったような神のきかんにおおよそ叶わないと思う心の全てに取り組んでです、私共がそれを除かせて頂くことに精進させる、て頂くところからです、ね、それこそ、その人間、生まれてくる時に、神の性というものを頂いてきてる。それに長年の我情が我欲が、ね、そういう人間が例えば、あー何というんですか、ね、しまえてしまう。もう生まれて、もう乳飲み子の時から例えば、そのお乳をいうとかたっぽの乳はこう押さえてから飲む。というでしょう、ね。もうちっとばっかり、その心が偏りだすと、もうそういう欲な心といったようなものが出けてくるんですけれども、そして、そういう風に具足してしまう。人間としてのいろんな、良い事も悪い事もですけれども、そのそういう心が染み付いてしまう。信心とはだからその染み付いた神のきかんに叶わぬ心を取り除いていくことなんです。ね、そこからです、いうなら、んー本当に真の信心。その真の信心を求めての信心ということになる。
 本当にに人のことが、ね、涙して喜べれる、ね、人のことのために泣いてあげれれる、ね、喜んであげれれる心というようなものができてくる。ね、私はそういう心をここでは真の心と、まことの心とあると思うのです。見合わせるというてもです、なら信心のあるもの同士、ね、同じ信心の程度もちょうどいい位にたろうておる。ね、だからえーこの結婚はよいとは限らんのです。ね、なぜかというと、同じ信心の生き方にあっても、火の性の人も水の性の人もあるからです。ね、なら例えその火の性の人が、水の性の人であってもです、ね、お取次という例えば信心の器という、ね、鍋というてもいいし釜というてもよかろう。ね、その信心を持ってお取次を頂くということによってです、それは火の性の人でも水の性の人でもです、いやむしろそういう人の方がかえって、いうなら普通では反対というような方の人がかえっておかげを頂くということにすらなるのであります。ね。火の性と水の性が出会う、そこにいわゆる水はしゃんと消えてしまう、ああ、火は消えてしまうといったような、淋しいことになるのではなくてです、ね、信心の真の心によって、それが反対のことになってくる。ね。そういう信心を繰り返させて頂くからこそですその次に、家柄一筋、というのがありますが、家柄一筋ということになって、えー家の徳にもなってくる、めいめいの徳にもなってくると思います。ね。

 今日は私は人のために泣け、人のために喜べるということが、この縁談に相性を改めるより、見合すより、真の心を見合わせよと、頂いたが、どうそれがつなぎあわせれるか、まあ私も分かりませんけれども、ただこの信の心というのを信心の信という字を使うておられるというところからです、まあ聞いていただいたわけでございますけれども。んーお互いのいわゆる信の心ということがどういうことになっておるのか、ね、その信の心如何に、いうならば相性というものは良うもなれば悪くもなるのでありますから、普通から言えば相性というようなものはあると申します。けれども信心をさせていただけば、だから相性というようなことはないということ。ね、ただ、えー心と心が通い合えばというだけではない、信の心というておられるから。ね、ただなら恋愛をして心と心が通うおうたから、結婚。そういうことじゃない。信の心がです、私は見合わせられるところの信心、そういうことを今日は聞いていただきました。

 えー提灯釣鐘は、釣り合わないと。ね、けれどもけしてそんなことではない。例えば、んー私の方の若先生たちの結婚の場合なんかでもです、もう全然畑違いのところです。しかも、家内の里は、お鮨やさん。普通でいうならば水商売。と、例えば教会の長男。もう普通からいうなら、なこう、そのどんがたってからではとても見合わせるということは絶対できないところだと思うんです。ところが神様がです、そしてこの頃家内と、もうこれはもういつも話すことですけれども、特に私は阿倍野に行ってからこっちそれを思うんですけれども、けれども、ほんっとにうちの嫁くらい教会にぴったりした嫁はおらんよち。阿倍野の教会の若奥さんと言う方がちょうど家の嫁のように、もうそれこそもう、絣のうわっぱり着てからもんぺばきで、もう他のご信者さん方はぴしゃりしてからエプロンかけて御用がありよるとに、そういう感じで、髪はもうつかんだだけ、もう化粧一つしておられんといったような感じです。阿倍野のそういう大変な大きな教会の若奥様が。ね、もう家の良子さんのごたるねというてから家内と話しました。そのことを話よったらちょうど若先生が来てから、これだけは私も感心しとるとか言いよりましたがね。そげんあんた教会じゃけん、そげんあんたもう紅つけたり金つけたりするなら、してからこう、ほりゃもう銀座のああたほんな真ん中から来とっとですけんね、家の嫁は。ね、そりゃ同じ寿司屋というても、天皇陛下にでもお鮨を握って差し上げるというほどしの、まあいうなら格のある店、お家からきとりますから、格の上においては、そりゃあどうかですけれども、普通からいうならば、教会と寿司屋さんちゃちょっと、見合わせられないところですけれどもです、神様は、いわゆる信の心を見合わせてくださったんだとこう思うです。ね。うん。信心させて頂いておかげを頂きますとです、その信の心というものが見合わせられてあるからです、ね、本当に願ってもないおかげになってくるのでありましてね。もう本当に、んー私が横からあー、ね、あのまあ少し若奥様ら若奥様らしゅうせんのち、こう言いたいくらいに思うくらいです。けれどももうなりふりかまわず、ね、もう本当にこの寒いのに足袋も履かずに、一生懸命修行します。修行精神が大勢です。ね、こういう嫁が側におるならば、先生たるもの、やっぱ修行せにゃおられなくなってくるだろうと思います。ね、いわゆる信の心を見合わせてくださってあるからなんです。とてもこういう田園教会の、田舎に、ほらもう東京の、銀、しかも銀座の真ん中からお嫁さんをもらう。もうそりゃあ合楽も困んなさろうちがわんごとというような人もあったようです。ところがそ、そげなだんじゃありません。とても本当にどげん人間の力働きで探してまわったっちゃ、とても探し出しはするまいとうような嫁をね、神様が見合わせてくださった。いわゆる信の心と、心を見合わせて下さった結婚だと、私げの若先生の場合、それを思います。これはなら私と家内の場合であってもそうです。ね、本当に信の心というものが、神様のおかげを頂いて、見合わせてくださってあったからこそ、今日おかげを私自身が頂いておるとこう思うのです。ね、だからそういうおかげを頂いて頂きたいと思いますね、どうぞ。

池尻てるか